弔辞

 あしなが運動40年の同志、山本孝史君。君の質の高い仕事を、持ち前のスピードと確かさで、楽々とこなし、周囲の驚きと賞讃の中、突然病魔に冒され、それでもなお自らの“がん宣告”を参議院本会で行い、その後も仕事の質を落とすことなく、「がん対策基本法」「自殺対策基本法」を与野党一致で成立させた。これらは君の議員立法ともいえるもので、永年の勉強と君の人柄からくる与野党と霞が関の人脈の多さが驚くべき速さで成立にこぎつけたと聞く。だが、我々日本人と議会は素晴らしい働き手、黄金の腕を失った。

 約2年半前の06年12月25日、僕が遺児学生との暮れの行事で神戸に来ていた時、君から電話が入った。「誰に相談していいか分からないので取り敢えずご報告します」というもので、胸腺がんの発覚とがんが全身にまわっており、肝臓にかげがある、と手短に言った。瞬間、20年前僕の妻が3年余患って早暁に逝ったすぐ後、7時過ぎに霊安室で掌を合わせてくれたいる君の姿を思い出した。

 「山本君、君はひとの5倍も10倍もの仕事をやってきた。残された時間を愛妻のゆきさんとのんびりやればいいよ」と僕は言った。だが、君は前にも増して意志的に仕事をしだした。「偉い男だ」と思った。

 僕が君と初めて出会ったのは、君が大学3年の夏だ。70年安保の年で全国の大学で学生運動が荒れ狂い、全学休学の相様を呈する中で、学生たちは日本の未来を憂え、理系学生も文系学生も、何か世の為人の為になれないかと真面目に議論していた。そんな暑い夏の昼下がり、君と僕と生路(いくじ)君という秋田大生が会ったのだ。その前の69(昭和44)年5月、交通遺児を高校に進学させようという運動が、東京の10歳の少年・中島穣(みのる)君の詩の朗読で始まった。

 中島君の「天国にいるおとうさま」の朗読をTVで放映するや日本中の茶の間から涙が洪水となって、レギュラー出演していた僕がびっくりするくらいスタジオに涙が渦巻き、中島君は先が読めなくなるし、司会の桂小金治さんも涙だ。政府担当大臣の田中龍夫さんも即座に交通遺児の全国調査を約束された。

 中島君の詩が作文集になると悲しい感動が加速し、国会で取り上げられ「育英財団設立」が決議され閣議でも了承され、翌年、交通遺児育英会は設立した。でも生んでくれたのはいいが予算は雀の涙。水野重雄会長は「募金はしない約束」の会長だし、専務理事の僕は金集めの経験もなく立ち往生だった。そんな時、秋田大生の6人が全国の大学募金にオルグをかけた。「自動車文明が高校進学できない交通遺児をつくっていいのか」。何か社会に役立ちたい学生ばかりの世相は一機に発火点に達し爆発し全国で480大学(団体を含む)が参加。それが今も春秋続いている全遺児進学を支援する「あしなが学生募金」の始まりだった。

 実は僕は母親を車に殺され交通行政の無策を世に訴える交通評論家としてマスメディアで政府や業界を攻撃していたが山本君も5歳の時、3つ年上のお兄さんを交通事故で亡くし、表現し難い重い心と胸苦しさをためて大きくなり、子どもキャンプリーダーや障害者へのボランティアをしていたのだが、「天国にいるおとうさま」を読んだとたん、君は自分が何をすべきかがわかったんだよね山本君!

 募金が終わると、君は、遺児には進学やお金だけですまない「心」の問題があり、それを全国に“遺児を励ます会”をつくって、今でいう“心のケア”をしてあげようと提唱し、募金仲間が中心になって各府県に「励ます会」結成のオルグに成功。全国協議会を作って自ら事務局長となり、母親たちの悩みを政府にぶつけ銀座をデモして世論を高め、各県でも作文集を作り、ピクニックに連れて行き、家庭訪問や調査で遺児母子と連帯していった。悲しい「兄の死」は運動のエネルギーとなって輝いていた。

 大学を出ると当然のように交通遺児育英会に就職。米ミシガン州立大学で家族社会学を修め、93年6月の衆院選では細川元首相に懇請され、励ます会の藤村修君と共に当選した。実力をめきめきと上げていった。

 僕は今しみじみと思う。君はお兄さんの死を大切に反芻しつつ、成長し、成るべくして立派になったのだ。

 山本孝史君、君はあり余る才能で全力疾走し大きな果実を生んだ。今日は全国からたくさんの君の教え子が集まっている。あとは彼らが君の教えをさらに伸ばして頑張ってくれるよ。

 天の一角でゆっくり休みながら教え子や政治に喝を入れて欲しい。僕らは君を生涯忘れないし誇りに思って生きて行く。山本君、長い間ご苦労様。ありがとう。ゆきさんのことも誰も忘れず仲良くするよ。

 最後に見舞った時の君の言葉を返す。「また会いましょう」。

平成20年1月12日

あしなが育英会会長 玉井義臣