2008年1月23日、参議院本会議で、尾辻秀久自民党参議院議員会長より、山本孝史に対して哀悼のことばがおくられました。私たち親族も傍聴させていただきました。尾辻先生の心のこもった温かなおことばに、何度も、何度も涙がこみ上げてきました。ここに紹介させていただきます。

山本ゆき

哀悼演説

本院議員山本孝史先生は、平成十九年十二月二十二日、胸腺がんのため逝去されました。享年五十八歳でありました。誠に痛惜哀悼の念に堪えません。

山本孝史先生は平成十八年一月、国立がんセンター中央病院において、現在の医療では治ることのないステージⅣの進行がんである」との確定診断を受けられました。奥様は「何も治療しなければ余命は半年」と告げられたとのことであります。

胸腺がんは非常に珍しいがんで、もともと外科手術による切除が難しいうえ、他の臓器への転移もみられたことから、抗がん剤による化学療法が選択されました。

爾来、山本孝史先生は、末期のがん患者として、常に死を意識しながら、国会議員の仕事に全身全霊を傾け、二年の月日を懸命に生きられたのであります。

私は、ここに、山本孝史先生のみたまに対し、謹んで哀悼の言葉を捧げます。

山本孝史先生は昭和二十四年七月七日、御家族の疎開先であった兵庫県芦屋市に生まれ、数ヶ月後、大阪市南船場に転居されました。

先生が五歳のとき、兄上が自宅前で、トラックに轢かれ、亡くなられました。山本先生は後に「母が亡骸となった兄の脚をさすっていたこと、毎晩、御詠歌をあげていた姿は今も鮮明に覚えている」と書き残されています。

山本先生はその後、立命館大学在学中、身体障害者の介助ボランティアを体験され、これをきっかけに大阪ボランティア協会で交通遺児育英募金と出会うことになります。交通遺児の作文集を読まれたとき、「夭折した兄の無念さや、両親の悲しみが一気に胸にあふれた」と記されております。

「大阪交通遺児を励ます会」を結成された先生は、活動を展開するため、全国協議会の事務局長に就任されました。交通遺児には様々な事情を背負った子どもたちがいます。先生は、「交通遺児と母親の全国大会」を成功させ、参加者とともに銀座をデモ行進されました。先生の政治の世界における御活躍の基礎は、「市民活動」にありました。

山本先生は大学卒業後、財団法人交通遺児育英会に就職され、その後、米国ミシガン州立大学に留学。家族社会学を専攻し、高齢者福祉や社会貢献活動、「死の教育」のあり方について学ばれました。大学院修士課程を修了された後、育英会に復職され、平成二年に事務局長に就任されました。

先生は、災害や病気、自殺などで親を失った子どもにも奨学金を支給したいと願っておられましたが、監督官庁の反対に遭い、縦割行政を痛感されたそうであります。

そして、平成五年。山本先生に転機が訪れます。誘いを受け、日本新党から旧大阪4区に立候補され、ボランティア選挙、お金のかからない選挙を展開し、当選されました。次いで平成八年の総選挙には、新進党から近畿比例区に立候補され、再選を果たされました。

衆院時代の山本先生は、年金や医療制度の改革、介護保険の創設や、残留邦人の援護などの問題に取り組まれました。また、一年生議員ながら当選の翌年から、その後長きにわたって厚生委員会の理事の職を務められました。

質問等の回数は、衆議院本会議での代表質問二回、討論二回、委員会での質疑七十回、質問主意書は血液製剤や臓器移植などの医療問題、援護事業などに関するもの三十四本を数えます。

特に薬害エイズ事件の真相解明では、「隠されたファイル」の存在や、加熱製剤承認後も非加熱製剤が使用され続けていた事実を明らかにされました。また、脳死・臓器移植問題では、いわゆる「金田・山本案」と呼ばれる対案を提出され、国会論議を深めることに貢献されました。

先生は平成十三年、参議院に転じ、大阪選挙区から立候補され、当選されました。再び年金や医療制度の改革に取り組まれ、亡くなられるまでの間、参議院本会議での代表質問が五回、予算、決算、厚生労働などでの委員会質疑は五十八回に及び、質問主意書についても年金、社会保険庁問題など十一本を数えます。

この間、党務においては、民主党次の内閣の厚生労働大臣、年金改革プロジェクトチームの座長、難病対策推進議員連盟の会長、自殺総合対策ワーキングチームの座長などを務められております。

また、山本先生は平成十五年、参議院民主党・新緑風会の幹事長に就任されました。先生が幹事長在任中の平成十六年の参議院選挙は、マニフェストで政策を競う選挙として、年金が大きな争点となりました。「年金のことなら山本に聞け」という言葉があるように、先生は年金政策の第一人者であり、民主党の年金改革法案の実質的な立案者であったと伺っております。

山本先生は年金論議を終始リードされましたが、政府の年金改革法案の代表質問に立たれた際、この壇上から、次のように訴えられました。

「議場の皆様に申し上げます。
年金改革はこの国のありようを決める大事業であり・・・ そして、我々は国民の代表であります。・・・ 年金改革とこれからの国のありようについて、この参議院において、真摯に、真剣に、そして徹底的に議論しようではありませんか」

国民の代表である国会議員と参議院が果たすべき職責について、先生がどのように捉えておられたのかが真っ直ぐに伝わってくる、使命感に満ちあふれた名演説でした。

厚生労働委員会における小泉総理との白熱したやり取りは、今も語り草となっております。我が党は厳しい選挙戦を強いられることになりましたが、このときの民主党の躍進こそ、参議院第一党となる礎となっているといえましょう。 山本先生は、我が自由民主党にとって、最も手強い政策論争の相手でありました。

私は平成十六年から十七年にかけて、厚生労働大臣を拝命いたしておりました。その間、山本先生から、予算委員会で三回、厚生労働委員会において八回の御質疑を頂戴いたしました。先日、会議録を読み返してみましたところ、百七十問ございました。その中でも印象深いのは、平成十六年十一月十六日の厚生労働委員会の質疑でした。

山本先生は、助太刀無用、一対一の真剣勝負との通告をされました。この質疑の中で、私が明らかに役所の用意した答弁を読みますと、先生は激しく反発されましたが、私が、私の思いを率直にお答えいたしますと、幼稚な答えにも相づちをうってくださいました。 先生から、「自分の言葉で自分の考えを誠実に説明する」大切さを教えていただきました。

そして、社会保障とは何かをご指導頂きました。 昨日も、先生に叱られないように、社会保障には特に力を入れて質問をいたしました。

山本先生は平成十七年、参議院財政金融委員長に就任されました。新しい分野で活躍しようとなさっていた、その矢先、病魔におかさておられました。

山本先生は平成十八年、五月二十二日、医療制度改革関連法案の代表質問に立たれ、この壇上から、次のように、語り始められました。

「理想の医療を目指された、故今井澄先生の志を胸に、私事で恐縮ですが、私自身、がん患者として、同僚議員始め、多くの方々の御理解、御支援をいただきながら国会活動を続け、本日、質問にも、立たせていただいたことに心から感謝をしつつ質問をいたします」

そして、「最後に、がん対策法の今国会での成立について、議場の皆さんにお願いをします。日本人の、二人に一人はがんにかかる、三人に一人はがんで亡くなる時代になっています。 今や、がんはもっとも身近な病気です。

がん患者は、がんの進行や再発の不安、先のことが考えられないつらさなどと向き合いながら、身体的苦痛、経済的負担に苦しみながらも、新たな治療法の開発に期待を寄せつつ、一日一日を大切に生きています。私があえてがん患者と申し上げましたのも、がん対策基本法を成立させることが日本の本格的ながん対策の第一歩となると確信するからです。

また、本院厚生労働委員会では、自殺対策の推進について全会一致で決議を行いました。私は、命を守るのが政治家の仕事だと思ってきました。がんも自殺も、ともに救える命が一杯あるのに次々と失われているのは、政治や行政、社会の対策が遅れているからです。年間三十万人のがん死亡者、三万人を超える自殺者の命が一人でも多く救われるように、何とぞ議場の皆様の御理解と御協力をお願いいたします」と結ばれました。

いつものように淡々とした調子でしたが、先生は、「抗がん剤」による副作用に耐えながら、渾身の力を振り絞られたに違いありません。この演説は、全ての人の魂を揺さぶりました。

議場は暖かい拍手で包まれました。私は今、その光景を思い浮かべながら、同じ壇上に立ち、先生の一言一句を振り返るとき、万感、胸に迫るものがあります。

先生は法律を成立させただけではありませんでした。痩せ衰えた身体を押して、がん対策推進協議会等を欠かさず傍聴されるなど、命を削って、立法者の責任を果たされました。

山本先生は、昨年七月の参議院選挙にも立候補され、再選を果たされました。召集された国会において、新議長を選出する投票が行われた際、壇上に向かわれる先生に、再び拍手が贈られました。

十二月四日、筆頭発議者として、被爆者援護法の改正案を提出されます。これが国会議員として記録に残る最後の仕事となりました。

衆参両院で延べ三十七本の議員立法を提出されたことになります。先生は最後まで、「国会議員こそ立法者である」との信念を貫かれたのであります。

先生は十二月二十二日、黄泉の国へと旅立たれました。先生の最後の御著書となった「救える『いのち』のために 日本のがん医療への提言」は、先生が亡くなられる直前、見本本が病室に届けられました。先生は、眼を開け、じっと見つめて頷かれたそうです。その時の御様子を、奥様は告別式において、次のように紹介されました。

「私は、彼の手を握りながら、本を読んであげました。山本は、命を削りながら執筆した本が世に出ることを確かめ、そして、日本のがん医療が、ひいては日本の医療全体が向上し、本当に患者のための医療が提供されることを願いながら、静かに息を引き取りました」

「バトンを渡しましたよ。たすきを繋ぐようにしっかりと引き継いでください」。そう言う山本先生の声が聞こえてまいります。

先生、きょうは外は雪です。随分やせておられましたから、寒くありませんか。先生と、自殺対策推進基本法の推進の二文字を自殺推進と読まれると困るから、消してしまおうと話し合った日のことを懐かしく思い出しております。

あなたは参議院の誇りであります。社会保障の良心でした。 ここに、山本孝史先生が生前に遺されました数多くの御業績と気骨あふれる気高き精神を偲び、謹んでご冥福をお祈りしながら、参議院議員一同を代表して、お別れの言葉といたします。

参議院議員 尾辻秀久