「がん対策基本法」の成立に大きな役割を果たした新しき患者代弁者〔がんサポート対談1〕

「がんサポート」山本孝史+埴岡建一 特別対談1 2006年11月

「がんサポート」山本孝史+埴岡建一 特別対談1 2006年11月

これが本会議での最後の質問になるかもという思いに衝き動かされて

衝撃的なデビューだった。去る5月22日、参院本会議場で、「がん告白」、そして「がん対策基本法」の成立を訴えたあの山本孝史議員の代表質問である。涙がこぼれた。扇千景議長は、質問時間が過ぎたが、遮らなかった。あれから4ヵ月余り。
山本さんは、自らのホームページで「これでいいのか日本のがん医療!」と題して、日本のがん医療を変えるためにアピールをし東奔西走しているが、医療ジャーナリストの埴岡健一さんとの対話を通して、当時を克明に振り返ってもらった。
がんと正面から向き合ったことはなかった

埴岡 5月22日に山本さんが参議院本会議で質問に立って、ご自分ががんであることを告白したうえで、がん対策基本法の成立を強く訴えたことは、大きなインパクトがあったと思っています。政治家として以前からがんには関心をお待ちだったのですか。

山本 正直申し上げて自分ががんになるまでは、それほど関心があったわけではないんですよ。国民の2人に1人はがんになる時代になったことも、3人に1人ががんで亡くなる時代になったことも判っているし、私自身母を30年前に乳がんで亡くしているんです。難病や腎臓、肝臓病、エイズなどには取り組んできましたが、それでも、自分ががんになるまでは正面から向き合ったことは無かったですね。

埴岡 とすると、やはり「これからの日本のがん医療をどうする」あるいは「がん医療に置ける政治の役割」といった、現在積極的に取り組んでおられるテーマについてお聞きする前に、山本さんが胸腺がんを告知されるまでの経緯を伺い、それがご自身の考えをどう変え、何か見えてきたかという点をお尋ねしないわけにはいきません。まず、発見された経緯をお話いただけませんでしょうか。

胸腺がんが告知されるまでの経緯

山本と埴岡建一氏(医療ジャーナリスト)
山本と埴岡建一氏(医療ジャーナリスト)
山本 昨年の12月20目、大阪に戻っていたとき、近くの胃腸科に検診を受けに行ったんです。私、実は潰瘍性大腸炎という持病がありまして、もう治っているんですが、ときどき大腸ファイバーを受けておかないといけないので、国会も終わったことだし、そろそろ行かないといけない時期だなと思っていました。ちょっと便通が不整かなと思う部分もあったんで、行ったんです。
  そしたら翌日の昼、12時58分に携帯にその病院の方から電話が入って、血液検査で腫瘍マーカーの数値が高いことが判ったので、すぐに来院していただけないかと言われたんです。そのときは大阪にいなかったんで、翌日の22日に行ったら副院長さんから「腫瘍マーカーの値が高いし、肝機能のほうも気になる数値が出ているので、すぐに腹部エコーと腹部のCTを撮ってください」と言われたんです。
  それで肝臓に犬きながんがあることが判ったんです。その病院は胃腸科ですから「ウチでは手に負えないので、早急に専門の病院で診てもらう必要がある」と言われまして、すぐに医者をしている友人に相談したら、肝臓だったら北野病院がいいと薦められたんで、すぐに検査が受けられるように手配してもらったんです。
  それが22日で、23日から3連休になったので北野病院に行ったのは26日、月曜日の朝でした。北野病院では肝臓の専門医から「これはどう見ても肝臓が原発ではないですね、胸から来ているんじゃないかなあ」と言われ、CTは腹部だけでなく胸や頭など他の部分も撮って調べました。その結果「ここに胸腺というのがあるんだけど、どうやらここらしい」ということになった。でも、確定するには胸に穴をあけて病変のある部分の組織を採取して詳しく調べる必要があると言われまして、12月30日まで入院して組織を採取する開胸手術を受けたんです。それによって、年明け早々に胸腺がん、それも進行がんの段階に入った胸腺がんであることが確定したんです。

頭の中が真っ白になることはなかった

埴岡 淡々とおっしやっていますが、胃腸科でがんを告知されたときはどんなお気持ちでした?

山本 よく言われるように、頭の中が真っ白になるとか、帰りの道をぜんぜん覚えていないなどということはなかったですよ(笑)。僕の場合、話だけでなく、フィルムという動かしがたい事実が目の前にありましたから逃れられないわけですよ。それを受け入れるしかないわけです。胃腸科の副院長さんは「こんな重大な話を何の準備もなしに話して申しわけありません」と謝っておられましたが、僕はかえってよかったと思っています。

埴岡 胃腸科でがんが見つかるまで、自覚症状のようなものはなかったんですか?

山本 がんを意識するような自覚症状は何もなかったですね。咳が出たし、疲労感が続くこともあったけど、咳に関しては僕は潰瘍性大腸炎のほかに、呼吸器にも持病を抱えているのでよく咳は出るんですよ。疲労感も今思えぽがんが肝臓転移したためだと思うけど、自分ではハードなスケジュールをこなしているせいだと思っていたんで、がんを意識するようなことはありませんでしたね。血痰が出るとか、目に見えて痩せるといった症状が出れば別ですけど、そんな症状はありませんでしたから。

埴岡 定期検診はまめに受けていらしたんですか?

山本 ええ、毎年4月から5月にかけて定期検診を受けていましたが、異常が見つかったことはなかったですね。

埴岡 それでがんを発見できなかったのですか?

山本 まあ、発見できたはずだという人もいるけど、胸腺は肋骨の陰に隠れて見えにくいので、X線ではなかなか発見できないんですね。ですから発見できなかったことを責めるわけにはいかないと思っています。

国会議員の活動を優先し東京の病院で治療

埴岡 山本さんは大阪でがんが見つかった後、東京で治療を受けたわけですが、それはやはり国会議員としての活動と並行してがんの治療を受けざるを得ないからですか?

山本 そうです。その点に関しては北野病院で診てくださったお医者さんたちがいい判断をしてくれたと思っています。胸腺がんが確定したあと、ドクターが僕に「ところで山本さん、治療どうしますか?」って訊くので、こちらとしては国会議員としての活動を優先させないといけないので、東京で治療を受けるしかないと申し上げたんですよ。そしたらドクターも「そのほうがいいです」と同意されて、「胸腺がんは大変症例の少ないがんなので、症例の蓄積のある病院でもう1度、病理から診てもらったほうがいいです」とアドバイスしてくれたんですよ。
  その一方で、大阪に戻ったとき来院してくだされば、いつでも相談に乗りますよ」とフォローする姿勢を貫いてくださったので感激しました。こんな有難いことはないですからね。

埴岡 その北野病院でのアドバイスもあって、国立がんセンター中央病院で治療を受けることになったわけですね。

山本 そうです。国立がんセンターに行ったのが1月11日で、そこで改めて検査を受けて結果が出たのが1週間後でした。結果は北野病院で出たものとほとんど同じでしたから、おのずと治療法は決まってきます。胸腺がんは症例が少ないがんなので治療法は肺がんに準じるとされているんですね。ですから肺がんと同じく、カルボプラチン(商品名パラプラチン)とタキソールの併用療法でいくことになったんです。

公務と入院生活の折り合いをどうつけるか

埴岡 抗がん剤に対する抵抗感はなかったですか。

山本 少し前まではシスプラチン(商品名ブリプラチン、ランダ等)とタキソールの組み合わせが第1選択肢だったようなんだけど、現在はカルボプラチンとタキソールになっているので、髪が抜け落ちたり、吐き気は覚悟はしていたけど、気持ち悪さをベッドでじっと耐えることはないだろうと思っていました。抗がん剤投与が始まったのは、1月24日なんですが、その心配よりも、国会の開会直前に入院することになったので、公務と入院生活の祈り合いをどうつけるかということで頭はいっぱいでしたね。

埴岡 1月中旬というと、国会が開催する時期と重なりますよね。

山本 そうなんですよ。国立がんセンターに入院したのが1月19日だったんですが、国会の開会が1月20日だったものですから、そのままがんの治療に専念というわけにはいきませんでした。
  というのは、僕は参議院で昨年秋から財政金融委員長をやっていて、各委員長は開会式にモーニング姿で出席しないといけない決まりになっているんです。しかも、1月中にどうしても可決しないといけない法案が1つあったんですが、委員長不在だと混乱は避けられないので、公務を優先せざるを得なかったんです。

埴岡 山本さんはがんであることを、はじめ公表しませんでしたが、党や関係の方たちは知っていたんでしょう?

山本 もちろん民主党参議院の執行部にはがんであることは伝えました。財政金融委員長を交代してもらわないといけないし、選挙区のこともありますから。僕は定数3の参議院大阪選挙区選出なんですけど、公職選拳法の規定では9月15日までに欠員が生じた場合、補欠選挙が行われることになるんですよ。それがあるので、党のほうには病状や予想される治療スケジュールも言っておきました。

緩和ケアの受け方、病院まで医師に訊ねた

埴岡 国立がんセンターで治療を開始するとき、思ったのはどんなことでしたか?

山本 がんの治療を受けながら、任期いっぱい議員を務めることです。初めて国立がんセンターに行ったとき、担当のお医者さんにもそのことは申し上げました。しかし、抗がん剤の副作用やがんの進行で体にかなりダメージを受けると思っていましたから、当面の目標は9月15日まで、議員活動と治療を両立させることでしたね。補欠選挙になれば、任期が少ししかないのに、選挙を実施するために、結構、税金も使うし役所の人も動かさなければならなくなるわけですよ。そうした事態だけは避けたかったですから。

埴岡 それは公職についている方でなければ味わえないつらさだと思います。議員活動と両立させることを最優先にするとなると、治療を始める時点で先の先まで考えておかないといけないので大変だったと思います。

山本 それまでにたくさん本を読んで、進行がんの段階に入ったがん患者がどんな経過をたどるか自分なりにイメージしていたので、治療を始める際に国立がんセンターのお医者さんには緩和ケアをどこで受ければいいかというところまで訊きました。

治療を続けるべきか続けざるべきか

埴岡 抗がん剤の投与による治療なので、はじめに短期間入院したあとは、在宅での治療になったわけですね?

山本 ええ。抗がん剤投与が始まったのが1月24日で、3週問あけて次からは1泊入院して投与を受け、間を1カ月あけて3クール目に入るというスケジュールでした。4クール目をやるかどうかは3クール目が終わった時点で様子を見て決めるということでした。

埴岡 副作用は?

山本 脱毛と手足のしびれはあったけど、副作用は非常にうまくコントロールされていたので、吐き気に苦しむようなことはほとんどなかったですね。食欲不振はあったけど、これもそうひどいものではなかったので食事も7割くらい食べることができました。
  副作用で一番ひどかったのは骨髄抑制でした。3クール目でそれが限界値に近づいたので、4クール目を受けるかどうか迷いました。そのことを、大阪に戻ったときに北野病院のドクターに相談したんですが、そのお医者さんが「3クール目まではマーカーが下がっていても4クール目にさらに下がるということは期待できないかもしれない。4クール目をやるかどうかは意見が分かれるところです」というので、やめたほうがいいかなとは思ったんですが、がんセンターで、とにかく受けてみて、効かなくなったら、その次の薬を試せばいいということで、4クール目も受けることにしたんです。
  これは僕個人の印象なんだけど、国立がんセンターでは様々な臨床データを取っているので、ドクターとしてもそうせざるを得ない面があると思うんですよ。それに、健康保険制度の制約から、2週問とか1カ月に1度くらいしか、検査や診察を受けられないわけですよ。
  しかも、4月に4クール目の投与が終わると休薬期問になるんですね。その問は何も治療はないわけです。標準治療ではそうなっているのでしょうが、マーカー値が上昇に転じているのに休薬期間に入るということは、マーカー値が上昇に転じている、がんが広がっているのに何もしないということじゃないですか。それと、もう1つ危惧していたのは、次に使う抗がん剤が効かない場合、どうなるかということでした。それが効かない場合、次の選択肢になっている抗がん剤を試すことになるのでしょうが、そのやり方だとどこかで見放されるのではないかと思いました。ドクターは抗がん剤の使い方も心得た誠実な方で、いろいろ工夫もされていましたが、国立がんセンターでは、保険制度上の制限から、1人ひとりの患者に合わせてさじ加減を変えるなんていうこともできないので、標準治療かそれに近い線にならざるを得ないわけです。そこで、平岩正樹ドクターのところに行ってみることにしたんです。

できるだけ長いQOLを保つことに主眼を置く治療

埴岡 現在も、平岩さんのところで?

山本 ええ、今は週に1度、診てもらっています。

埴岡 そのくらいの頻度でいかないと、さし加減治療はできないのですね。

山本 さじ加減治療をやるとなると、その都度検査をしなければいけないので、やるほうは大変でしょうが、患者としては大変心強いです。

埴岡 たとえばどんなところが?

山本 逐次検査をして効果や副作用を見ながら抗がん剤の投与量を調節してくれるのは、大変ありがたいです。抗がん剤投与には大きく分けると、最大量の投与を行ってがんを可能な限り小さくする。当然副作用も大きいがあくまでも縮小効果を優先させる考え方です。もう1つは、がんが縮小させることより、できるだけ長くQOLを保つことに主眼を置く治療です。
  国立がんセンターは前者に近いように思いますが、平岩さんは後者です。たとえば、今僕は、ジェムザール(一般名ゲムシタビン)とナベルビン(一般名ビノレルビン)の併用による抗がん剤投与を受けているんですが、ジェムザールの標準投与量は1000ミリグラム/平方メートル(体表面積)で、それでいくとぽくの場合は1800ミリグラムになるんですよ。
  しかし平岩さんは、そうした基準には一切とらわれないで、僕の場合はじめは1000ミリグラムの投与から始めたんです。検査で血小板の数値が下がっていると、僕と相談して投与量を800ミリグラムにするような対応をしてくださる。ジェムザールもナベルビンも血管炎を起こしやすい薬なんだけど、うまく量を調節しながらやってくださるので、今のところ、がんは小康状態を保っている感じですね。

患者団体の代弁者になりうる人間

埴岡 抗がん剤だけで、放射線はやっていない?

山本 ええ。放射線はやっていません。放射線療法は外科療法と同じで局部限定の治療法ですから、今の私の症状では放射線は行いません。がんとの戦いは、ある意味情報戦でもあるので、その場その場できちっとこちらが知りたいことを言ってくれるのは大変ありかたいですね。

埴岡 平岩さんのところに行くようになってからは、国立がんセンターには1度も行ってない?

山本 いいえ。現在も並行して4週間おきに行っていますよ。ドクターヘの信頼が揺らいでいるわけではないですから。行くとちゃんとコンサルティングもしてくれて、検査の数値を見ながら「これならいいでしょう。でも、この副作用に注意してください、とか、この数値は気にかけていてください」としっかり、アドバイスもしてくださいます。

埴岡 平岩さんは最近、新患を受け付けていないんじゃないですか。

山本 たまたま、5月22日に参議院本会議でやった質問をテレビで見てくれていたんですね。平岩さんはこの男なら、亡くなった三浦捷一ドクターや佐藤均さんに代わって患者団体の代弁者になりうる人間だと思ったようなんです。平岩さんはずっと患者団体の活動に関わってこられた方なんで、三浦さん、佐藤さんが亡くなったあと、誰か出てきてほしいと思っていたようなんですね。

これが本会議での最後の質問になるかもしれない

埴岡 あのとき山本さんが今自分ががんであることを告白して、がん対策基本法の1日も早い成立を訴えたことは、政治家だけでなく幅広い層に強いインパクトを与えたわけですが、治療を開始した当初、がんを公表なさらなかった山本さんが、あの場で初めてがんを公表しようと思い立った動機はどんなところにあるのですか。

山本 もちろん、自分ががんであることを言いたくて質問に立ったわけではありません(笑)。根本にある動機は、やはりこれが本会議での最後の質問になるかもしれないという思いがあったからです。それまでに20、30冊がんに関する本を読んでいましたが、来年7月までの任期をとても全うできないと思っていましたから、調子のいいうちにやれるだけやっておきたいという気持ちが強くなっていたんです。
  今年の国会では健康保険法の改正が重要法案と位置付けられていて、いずれ参議院本会議に小泉総理が出席して各党の代表質問が行われることになるわけです。しかも、民主党は4月4日に「がん対策基本法」の民主党案を国会に提出していたので、これを成立させるのは国会議員であり、かつ、がん患者である自分の使命だと思ったわけです。そこで4月に入ってすぐ、民主党参議院の執行部に代表質問を僕にやらせてほしいと手を挙げたわけです。快く了承していただきました。

埴岡 治療を開始した当初、がんであることを一切公表しなかったのは、差し障りが大きいという判断があったからですか?

山本 公表して無用のご心配をかけるのもどうかなと思いました。議員仲間にもあえてがんであることを伝えるようなことはしませんでした。でも、脱毛してカツラをかぶっていることは見ればすぐわかるし、痩せて顔もだいぶ変わっていたので、皆さん、これはがんに違いないと思っていたんじゃないですか。

切実な患者の思いを伝えるために発言を決意

埴岡 「がん対策基本法」の民主党案はかなり細部まで言及したものでしたが、自民党のほうは初めあまり熱心ではないような印象がありましたが。

山本 僕が危惧していたのはそこなんです。与党側では公明党は原案を持っていたけど、自民党は乗り気ではなくて、小泉総理も国会でそんなものは必要ありませんと言い続けていたので、自民党が成立させようという気がないのは見え見えだったんです。でも世論に押されて、与党も「がん対策基本法」を5月23日に国会に提出しました。国会の会期末は6月18日で、土、日に重なる関係で実質的には6月16日です。
  各議員に「がん対策基本法」成立の必要性を強く認識してもらって、与野党が一致して成立に向けて前向きに話し合わないと、成立が難しいわけですよ。それにはどうすればいいかといろいろ考えたんだけど、切実な患者の思いを議場にいる各議員に伝えるには、自分自身が当事者として発言するのが一番なんです。そうすれば、インパクトが違いますから。

埴岡 あの本会議での質問のとき、山本さんは持ち時間を2分以上オーバーして質問しているんですが、扇千景議長からは何の注意もなかったですね。

山本 参院事務局の職員が議長のところに15分の持ち時間をオーバーしているとメモを持って行ったようなんですが、扇さんは何も言わずにそのまま続けさせてくれたんですよ。あのときは、総理に医療費の削減と患者の負担増、診療報酬の更なる引き下げが引き起こす多くの問題、医師不足・偏在問題への対応策、といったテーマに言及したあと、最後に「がん対策基本法」と「自殺対策推進基本法」のことに触れたので、何も言わずに続けさせてくださった扇さんの度量には心から感謝しています。

山本議員の代表質問、そのインパクトの大きさ

埴岡 終わったあと、野党だけでなく与党席のほうからも大きな拍手が起きたのには驚きました。泣いている議員までいました。それに比べると小泉総理の答弁は冷ややかだった印象が否めないんですが。

山本 小泉さんの答弁は、冷淡な対応だったように思われるかもしれないけど、それは可愛そうです(笑)。だって、議員立法に行政府の長である総理が言及することは、立場上無理なんです。でも、あのタイトなスケジュールの中で「がん対策基本法」が成立したのは、官邸の指示があったからなんですよ。それが無ければとても成立には至らなかったので、小泉さんは決して冷淡だったわけではないんです。

埴岡 5月22日の代表質問のあとの反響の大きさは、山本さんご自身が考えていたよりもはるかに大きなものだったのではないですか?
  ニュースでは代表質問する山本さんの姿が大きく報じられていたし、翌日の新聞にも写真入りで出ていました。そのあとも連日のように、各紙が「時の人」にスポットを当てる欄などで山本さんのインタビューを掲載していましたし。

山本 メディアもそうですが、たくさんの方からお見舞い、激励の手紙やメール、ファックスをいただき感激しました。その中には長い間、音信が途絶えていた友人からのものや、海外からのメールもありました。漢方薬や健康食品をお送りくださった方もたくさんいらっしゃいましたね。柳原和子さんからは、「天使が空から舞い降りてきたみたい」と言うメッセージを頂きましたし。

埴岡 それは佐藤均さんや三浦捷一さん亡き後、患者の代弁者として患者の視点からの意見を強く社会に主張する人が出てきたという意味なんでしょうね。

山本 そう思います。ちょっとオーバーじゃないかとは思いますが、悪い気はしません(笑)。予想以上に大きな反響があったのは、光線の関係で実際以上に痩せこけて見えたこともあるんじゃないかと思っています。それと、あのときは抗がん剤を4クール投与後、休薬しているときで最悪の状態でした。
  あれから、平岩さんのところでさじ加減治療を受けられるようになって、体重も戻り、頭の毛も生えてきましたから、今(8月時点)お見舞いに来られる方は、皆さん「何だ、ずいぶん元気じゃないか」とおっしゃるんですよ(笑)。

埴岡 裏返して考えればあの代表質問のインパクトが如何に大きかったかということになるんですが、そのあとも、山本さんは与野党問の「がん対策基本法」を巡る論議に参加して、「がん対策基本法」の成立に大きな役割を果たされたと間いています。会期末の6月16日になってようやく成立の運びとなったのですが、そこまで時間がかかったのはなぜなんでしょう?

山本 これについては、次回、詳しくお話ししたいと思います。