岩手県・大槌町滞在46日間の記録

第1回滞在: 2012年12月29日~2013年1月30日/第2回滞在: 2013年3月1日~2013年3月14日

「ただ、見に来てくれるだけでいい。私たちの現状を外の人たちに話してくれたらいい」ーー 大槌町の人たちは皆、私にそうおっしゃってくださいました。「見に行くだけでは失礼では」という思いがあった私には、思いがけない、ありがたいお言葉でした。滞在記を執筆中です。写真で私が見てきた大槌町を紹介いたします。(3月28日 山本ゆき)

2013年3月11日。被災から丸2年。江岸寺(こうがんじ)に新しい鐘が届き、お坊さんたちと町の人たちが鎮魂と祈りの鐘をつき、2年ぶりに鐘の音が町に響きました。大槌駅前の跡地では1255個の竹燈篭に灯がともされました。午後2時46分、町にサイレンが鳴り渡り、私は、自殺対策のNPO「蜘蛛の糸」の佐藤久男理事長と大槌湾を見下ろす城山から祈りを捧げました。


城山から見下ろす大槌湾と津波で荒い流され、火災で焼き尽くされた町。今はコンクリートの土台が残るだけ。住居跡には花と飲み物がお供えされていました。


小鎚川に飛来した白鳥。悠然と流れる大槌川の川沿いには解体を待つ県立大槌病院が。大槌名物の南部鼻曲がり鮭が、仮設住宅脇で寒風に晒されていました。


写真左は、町長と39人の職員が犠牲となった大槌町役場。解体か遺構かの議論がなされています。現在の町役場(写真中央)は、元の大槌小学校。1階が浸水し、2階が焼けて黒く焦げた建物を改築したのだそうです。大槌中学校、大槌小学校、大槌北小学校、安渡小学校、赤浜小学校の5校の生徒たちは、同じプレハブの校舎で学んでいます(写真右)


「私の家はここにありました」と雪で覆われた跡地を指さす男性。写真中央は、奇跡的に火災を逃れた2つの建物。右の建物の2階は喫茶店「夢宇民」(ムーミン)。「憩いの場として再開してほしい」と町の人たちに懇願されたとマスター。写真右は、津波の境界線がはっきりとわかる吉里吉里地区。


写真左は江岸寺の大萱生良寛ご住職。津波で前住職の父上と息子を亡くされましたが、残された遺族のために読経を続けてこられました。写真中央は、焼けた鐘楼。写真右は、新たに建造された鐘楼。3月11日、町民がつく鐘の音が2年ぶりに町内に響いていました。


仮設住宅前のお地蔵さん。仮設住宅の集会場で毎朝10時、ラジオ体操が始まります。体操の後は、「ボケ防止の歌」を歌い、続いてお茶っこ会。「このひとときが一番の楽しみ」と皆さん。私も参加させてもらいました。


天井から15㎝~20㎝で津波の水がピタッと止まり、そのあと引き始めたとNPO「遠野まごころネット」の臼沢良一副理事長(写真左)。写真中央は仮設の「きらり商店街」で焼鳥屋さんを営むおばちゃん。亡くなった妹さんの焼き鳥のタレを復活させました。仮設住宅の玄関先に出された黄色い旗(写真右)は「今日も元気です」の合図。


大槌伝統の虎舞を延焼を逃れた小鎚神社で見ました。赤浜のひょうたん島には津波で被害にあった灯台が再建されました。ひょうたん島カレーは2種類の味が楽しめ、ボリュームたっぷり。


「おおつち君」はきょうも元気。町には「浸水想定区域」の表示が。電柱の表示は、黄色の線のところまで盛り土をすることを意味しています。駅も線路も流されましたので、バスだけが公共の乗り物です。


私が滞在した小川旅館。写真左が現在の建物(プレハブ)で2012年12月3日にオープンしたばかりでした。写真中央は震災前の鉄筋建ての小川旅館。焼けて解体され、更地となっています。この場所は、2mのかさ上げを待つ地域。本格的な再建のめどは立っていないといいます。


小川旅館の女将さんとご主人。絶望の淵から這い上がり、やっと旅館を再建。女将さんの心づくしのおせち料理は最高に美味。お雑煮のお餅は、鶏肉と野菜たっぷりのすまし汁の中に。それだけでも美味しいのに、お餅は、クルミのたれ(右端)をつけていただくという贅沢なものだでした。私が着ている綿入れの半纏は、女将さんからお借りしたもので、支援物資でいただいたものだそうです。