江戸時代、朝鮮から文化使節団「朝鮮通信使」が来日し、江戸の徳川将軍を表敬訪問していたことをご存知でしたか?
◆ 秀吉の侵略を乗り越えて
通信使とは、「信義を通わす使節」という意味で、15・16世紀の室町政権下でも行われ、日朝関係は概ね平和な関係が保たれていました。しかし、豊臣秀吉は2度にわたり朝鮮出兵を行います。「文禄・慶長の役」です。この争いで、日朝両国間の関係は冷えたものになってしまいました。
しかし、江戸幕府を開いた徳川家康は「善隣外交」政策を行います。そして、1607年(慶長12年)以来、1811年(文化8年)まで12回にわたって、主に徳川将軍の襲職祝賀のため通信使が来日し、国書を交換し合います。両国は、対等の友好国として交わったのです。
徳川将軍が変わるごとに、幕府は対馬藩主(宗氏)を通じて、朝鮮国に通信使の派遣を要請しました。そして、訪日が決まると、対馬藩から朝鮮へ出迎えの使者を出し、風向きの良い日を選んで釜山を出発し、対馬に渡ります。
その後、壱岐・九州北部・瀬戸内海を経て、大坂に着き、そこからは川船に乗り換えて淀川を上り京都へ。さらに陸路、中山道・美濃路・東海道を経て江戸へ向かいました。
◆ 北浜に上陸した通信使
大阪での上陸地点は北浜で、現在の「花外楼」のある辺りと言われます。そこから堺筋(当時の大阪のメインストリート)を下り、宿舎の津村別院(北御堂)に向かいました。一行の人数は、毎回300〜500人の大使節団でした。迎える方も、礼を尽くし、最大限の歓待をしました。武士や町民との交流も盛んに行われたようです。大阪での朝鮮通信使の検証は遅れています。
2月1日に、花外楼で「朝鮮通信使について学び、饗応料理を食する会」を催した熟塾の主宰者・原田彰子さん(大阪府八尾市在住)は、朝鮮通信使を通しての当時の善隣外交に学ぶため、記念碑を建てる構想を抱いています。
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