☆ 「ええとこ大阪」 no1. 江戸時代の善隣外交・朝鮮通信使 ☆ (2003年3月記)

 江戸時代、朝鮮から文化使節団「朝鮮通信使」が来日し、江戸の徳川将軍を表敬訪問していたことをご存知でしたか?
 
◆ 秀吉の侵略を乗り越えて
 
  通信使とは、「信義を通わす使節」という意味で、15・16世紀の室町政権下でも行われ、日朝関係は概ね平和な関係が保たれていました。しかし、豊臣秀吉は2度にわたり朝鮮出兵を行います。「文禄・慶長の役」です。この争いで、日朝両国間の関係は冷えたものになってしまいました。
 
  しかし、江戸幕府を開いた徳川家康は「善隣外交」政策を行います。そして、1607年(慶長12年)以来、1811年(文化8年)まで12回にわたって、主に徳川将軍の襲職祝賀のため通信使が来日し、国書を交換し合います。両国は、対等の友好国として交わったのです。

  徳川将軍が変わるごとに、幕府は対馬藩主(宗氏)を通じて、朝鮮国に通信使の派遣を要請しました。そして、訪日が決まると、対馬藩から朝鮮へ出迎えの使者を出し、風向きの良い日を選んで釜山を出発し、対馬に渡ります。
 その後、壱岐・九州北部・瀬戸内海を経て、大坂に着き、そこからは川船に乗り換えて淀川を上り京都へ。さらに陸路、中山道・美濃路・東海道を経て江戸へ向かいました。

◆ 北浜に上陸した通信使

  大阪での上陸地点は北浜で、現在の「花外楼」のある辺りと言われます。そこから堺筋(当時の大阪のメインストリート)を下り、宿舎の津村別院(北御堂)に向かいました。一行の人数は、毎回300〜500人の大使節団でした。迎える方も、礼を尽くし、最大限の歓待をしました。武士や町民との交流も盛んに行われたようです。大阪での朝鮮通信使の検証は遅れています。

 2月1日に、花外楼で「朝鮮通信使について学び、饗応料理を食する会」を催した熟塾の主宰者・原田彰子さん(大阪府八尾市在住)は、朝鮮通信使を通しての当時の善隣外交に学ぶため、記念碑を建てる構想を抱いています。

 原田さんの話
 
「花外楼の近くに記念碑を建てて、朝鮮通信使への饗応料理を名物に出来ないでしょうか。秀吉の時代と第二次世界大戦の、二度の侵略という歴史はあるけれど、江戸時代に、対等に、いえそれ以上に敬って料理でもてなしました。初めて北浜の地に降り立った朝鮮通信使は、上陸して一息つき、大阪城に視線をおくり、『秀吉・・・』という気持ちを押しとどめ、新しい時代のために歩を進めました。また大阪の人々も敬意をもって文人を迎えたのです。その埋もれた歴史を平成の時代に検証し、日本人と在日の人たちとでお金を出し合い、共同で一つのモニュメントをつくりたいですね。三度同じ過ちをおこさないようにと心するために……。これからの日韓・日朝の交流の中で、特に大阪において大切なことではないかと思うのです」。

◆ 雨森芳洲の『誠信外交』

 対朝鮮外交の窓口だった対馬藩に仕えた儒学者の雨森芳洲(1668〜1755、滋賀県高月町生まれと伝わる)は、「外交の基本は真心(まごころ)の交わりである」と、『誠信外交』を唱えました。「外交においては相手方のこころを知り、まずそれを尊重しなければならない」「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠信である」というのが芳洲の考えでした。 
 
  残念ながら明治時代以降の一時期、日韓関係は、日韓併合などで必ずしも友好関係にはありませんでした。北朝鮮との関係は今も途絶えたままです。このような時だからこそ、雨森芳洲の『誠信外交』は思い起こされるべきではないでしょうか。
(この原稿は、熟塾主催「朝鮮通信使について学び、饗応料理を食する会」での仲尾宏氏(京都造形芸術大学客員教授)の講演と滋賀県高月町立観音の里・歴史民俗資料館のホームページを参考にしました)。

    

 


 必見、ミュージカル「つばめ」  (写真は、主役のお燕役の椿千代さん)
 朝鮮通信使を題材としたジェームズ三木作のミュージカル「つばめ」(わらび座公演)は、武力での報復合戦外交を、「それでいいのか」と考えさせてくれます。儒教の教えにもとづいて、「文」をもって「武」に報いた朝鮮国。そして、その心に応えた徳川幕府。ジェームズ三木さんは「真っ先に、ブッシュ大統領に見てもらいたいミュージカル」と語っています。
 3月6日(木)7日(金)の両日、いずれも午後6時30分から、大阪厚生年金会館・芸術ホール(西区靭公園)で公演されます。料金はS席5000円、A席4000円。是非、ご覧下さい! ハンカチを忘れないように! お問い合わせは、わらび座関西事務局(電話06-6864-9600)まで。 「つばめ」のホームページはこちら

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