太閤路地プロジェクト
大阪市内の中心部「船場」には、江戸時代に敷設された「太閤下水」が、ビルや家屋の背に挟まれた細い路地として、その名残を留めています。この「太閤路地」に息吹を吹き込んで、町の活性化につなげようというプロジェクトが進んでいます。ご紹介します。
秀吉の都市計画
全国統一を果たした豊臣秀吉は、大坂城を築城しました。当初、城下町を大坂城から南に、上町台地沿いに伸ばしていましたが、1598(慶長3)年、秀吉は都市計画を変更。大阪城の西方、東横堀川を西に越えた、後の「船場」の一帯へと展開しました。
船場の太閤下水(背割下水)の始まり
船場には、1583(天正11)年、筒井順慶によって最初の大名屋敷が作られていました(後の大阪市南区順慶町で、私が幼少期を過ごしたところです。今は、大阪市中央区南船場と、ちょっと味気ない町名になっているのが残念ですが)。
もともと、船場は低湿地で、2代目将軍秀頼は、街づくりに下水を取り込むよう指示し、東西を走る下水が掘られることになります。南側に向く屋敷と北側に向く屋敷の、それぞれの裏側を割るように流れていたことから「背割下水」と呼ばれていました。
太閤下水の変遷
「太閤下水」は、江戸時代に更に敷設が進みました。明治のころには、その上にコンクリートが張られ、暗渠になりましたが、全市で120キロにも及びました。その後、近代下水道が整備されましたが、今も約40キロが残り、現役として活躍しています。
「大阪城主」と親しみを込めて呼ばれている、大坂城天守閣博物館名誉館長の渡辺武さんによれば、「現在の下水は、太閤下水の上に、レンガ、モルタルが重なり、まるでバームクーヘンのよう」だそうです。
卒論がもたらした太閤路地の再発見
西川太さん(関西学院大学卒業)は、この太閤路地を卒業論文に取り上げました。自転車で船場を駆け巡り、太閤路地を現在の大阪市街地図に落とし込むという根気強い作業の結果、太閤路地が再発見されるきっかけとなりました。
路地裏ライブハウスの誕生
その論文に惹きつけられた人がいました。建築士の戸田和孝さんです。戸田さんは、テナントの抜けたビルのオーナーから相談を受けていました。空き部屋はビルの奥の部屋で、空室率の高い現状では、なかなか借り手は見つかりません。そこで、発想を転換。裏通り(すなわち太閤路地)に面している方にも入り口を作りました。路地にはゴミ袋が積まれ、自転車が放置されていましたが、ライブハウスとして見事に生き返り、いまや隠れた人気スポットです。
居心地のいい空間とは
西川さんの論文を指導した片寄俊秀・関西学院大学教授も、「生き物としての人間にとって、最も居心地のいい空間は、水辺と狭くて楽しい路地」であり、「広い道、大きな公園、高いビルが街の活力を奪っている。大型の開発は資金難からして無理。むしろ、細い路地の奥に、居酒屋のちょうちんがポッと灯っているようなところが魅力。小さなプロジェクトの集積が一番」と語ります。
行政任せの街づくりと決別
戸田さんも「行政に任せた街づくりは終わりました。路地に親水公園や店舗を整備して、ヨーロッパの古い街のような良い雰囲気を醸し出したいですね」と夢を語ります。
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